「静岡市清水区(旧 清水市)」
サッカーのプロリーグ、Jリーグに所属する清水エスパルスのホームタウンであり、古くからサッカーが盛んな町です。
清水エスパルスは、Jリーグ発足当時の10クラブであるオリジナル10(テン)にも選ばれました。
「静岡(清水)≒サッカー」というイメージを持っている人も多いでしょう。
特に清水は、サッカーが地域に根付いたサッカー熱・サッカー愛に溢れた地域です。
- なぜサッカーの町「清水」と呼ばれるようになったのか
- どうして清水がオリジナル10に選ばれたのか?
- サッカーの町への発展に貢献した人物は誰か?
本記事を読めばその理由が分かります!
最初に結論です。
・「堀田哲爾」の情熱が清水サッカーの土壌を作った
・サッカーの町へ発展したのには、8つの理由がある
清水のサッカーの発展に最も大きく貢献した人物…それは堀田哲爾(ほったてつじ)氏です!
堀田哲爾氏がいなければサッカーの町❝清水❞は存在しなかったと言っても過言ではありません。
清水のサッカーだけでなく、日本サッカーの発展にも多大な貢献をした人物です。
①堀田哲爾とは?
さて、全国的には知名度の低い堀田哲爾氏…
されど、この人物こそが清水サッカー発展の礎を築いた最大の功労者なのです!
・1935年8月2日 – 2012年7月23日
・静岡市(現:静岡市葵区)出身
・7人兄弟の5番目(四男)
・小学時代は野球、中学校よりサッカーを始める
・静岡大学教育学部短期大学部を卒業
・1956年に清水市立江尻小学校(現:静岡市立清水江尻小学校)に教師として赴任
地元静岡市出身のサッカー経験者が小学校の先生に…
ここまでは大きな驚きは感じません。
ただこの頃は子供の頃にサッカーを習う子はまだ少なく、珍しい経歴だったと言えるでしょう。
②小学校年代の育成に着目
さて、物語はここから始まります。
江尻小学校に新任の教員として赴任した堀田哲爾…
ここからは尊敬の念も込めて堀田先生と呼ばせていただきます。
堀田先生が小学校に赴任したのをきっかけに、小学校年代の育成に続々と着手することになります!
一体、どんな方法で小学校年代の育成を進めたのか…さっそくその理由をひも解いていきましょう!!
サッカー経験者であり小学校の先生である堀田先生が、小学校年代の育成に着手
堀田先生は、様々な手法で小学校年代の育成を進めていきます
特に、サッカーの町❝清水❞の発展のきっかけになった理由を8つ紹介します!
どうでしょう?これだけ見てもワクワクしてきませんか!?
それでは、サッカーの町❝清水❞の歴史へ…レッツゴー!!
【理由①】サッカー少年団の結成
小学生にサッカーを普及するには、サッカーチームを作らないことには始まりません!
堀田先生はまず、「放課後の時間を使ってサッカーを教えたい」と校長にお願いをして、熱意をくみ取った校長先生からOKをもらいます。
当時担任をしていた5年生に加え、6年生や女子児童も加わり、何とかメンバーが集まりチームが始動します。
1956年、日本初の小学生サッカーチームの誕生です!!
しかし、その頃の日本はサッカーが何か分からないという子供が多く、子供たちだけでなく親もサッカーをすることに賛否両論がありました。
1964年に同チームは「江尻サッカースポーツ少年団」に改名します。
2024年現在も続くサッカースポーツ少年団の誕生です!
日本初の小学生サッカーチームを結成し、小学生がサッカーをする土台を作った
【理由②】小学生の長期間のリーグ戦を開催
子供たちは段々と「試合をしてみたい」と希望するようになります。
教育学部出身であった堀田先生は、同じく教育学部出身の先輩が地元の小学校に赴任していました。
そこで、先輩に声を掛けていくことで練習試合の相手を徐々に増やしていきます。
1966年、清水市小学生対抗サッカー大会を初めて開催します!
そして1967年、清水市サッカーリーグを主宰します!
清水市内の14チームが2組に分かれて長期間のリーグ戦を行い、その1位同士が町のお祭りに合わせた日程で優勝を決めるという流れでした。
全国初の小学生の長期間のリーグ戦の誕生です!!
長期間のリーグ戦方式は、この2年前の1965年に誕生した国内最高峰の『日本サッカーリーグ(JSL)』を参考にしたものでした。
堀田先生は、「トーナメントでは早々に負けたチームの試合数が少なくなる。そうなると勝敗にこだわるチームが増えてしまう」と、子供たちの成長を考えたリーグ戦のメリットを強調して、開催に至りました。
また、1965年に誕生したサッカースポーツ少年団は、清水市に加えて同じく静岡県内のサッカーどころ「藤枝市」でも誕生し、清水市と藤枝市を筆頭に、サッカーが徐々に静岡県全体に広がりを見せます。
そして1969年には、第1回静岡県少年サッカー大会も開催され、リーグ戦だけでなく様々な大会が開催されるようになっていくのです。
全国初の小学生の長期間のリーグ戦を主宰し、清水サッカーの底上げを図った。
【理由③】選抜チーム「清水FC」の結成
後に誕生した「清水エスパルス」の起源となる「清水FC」。
その始まりは1968年(昭和43年)12月1日。
地元初開催となったJSLの三菱重工対日本鋼管戦が、県営草薙球技場(現静岡市駿河区)で行われ、その年のメキシコ五輪で銅メダル獲得の立役者となった清水出身のMF杉山隆一(三菱重工)の凱旋試合となり、超満員に膨れ上がりました。
その前座試合を担当したのが、「清水市小学生選抜」対「静岡市小学生選抜」戦だったのです!
清水市選抜は、前年にスタートした清水市サッカーリーグで活躍した選りすぐりのメンバーで構成されたチームで臨みました。
対する静岡市選抜も、清水市の影響を受け翌年からリーグ戦をスタートさせることが決定しており、その参加チームから選ばれたメンバーでしたが、結果は6-0で清水市選抜が圧勝!!
この選抜チームを「全清水(後の清水FC)」と呼び、その後の活躍が清水を日本一のサッカーどころへと導く大きな柱となっていくのです!
1970年以降は全国でもその名を轟かせ、「サッカー王国」の象徴的存在となりました。
清水FCは1977年(昭和52年)から始まった『全日本少年サッカー大会』の記念すべき第1回大会に優勝すると、第10回大会までになんと6度頂点に立ったのです!
実にこれまで、8度の全国優勝・準優勝も3回という輝かしい成績を残しています。
チーム理念は「すべての力をチームのために」
清水FCのOBには「清水三羽烏」と呼ばれた大榎克己・長谷川健太・堀池巧、現在のJリーグチェアマンである野々村芳和、眞田雅則、平岡宏章、古賀琢磨、斉藤俊秀、伊東輝悦、西澤明訓、佐藤由紀彦、市川大祐ら、その後清水エスパルスでプレーしたレジェンドたちを多く輩出しました。
ちなみに、2023年清水エスパルスクラブ創設30周年に合わせて、清水FC 55周年記念企画を行いました!
選抜チーム「清水FC」を作り、全国で活躍しサッカーの町としての知名度を高めていった。
【理由④】ナイター設備の普及
サッカースポーツ少年団の広がりによって、清水市内の小学校ではナイター設備が普及しました。
その理由は以下の2点です。
①サッカーを教える指導者の大半が小学校の先生だった
②練習場が小学校のグラウンドであった
ほとんどすべての小学校にナイター設備が普及して、夜間でも冬場でもサッカーの練習が可能になりました。
冬場に降雪がほとんどない清水市内では、本当に1年365日通してサッカーの練習ができる環境が整ったのです!
旧清水市内だけでなく、静岡市内全体に、小学校および中学校のナイター設備が広がりを見せました。
2024年現在、小学校・中学校のナイター設備を活用して、サッカーを始めとするスポーツ教室が毎日のように開催されています。
ナイター設備が整い、1年中サッカーに熱中できる環境が整った。
【理由⑤】サッカーの神様「ペレ」が清水へ
1950年代の国内の人気スポーツといえば、一番は野球でそれに続くのが相撲でした。サッカーはマイナー中のマイナーで、国際舞台でも日本代表が活躍できない状況が続いていました。
日本代表を強化するためには、まず国内でサッカーの認知度を高め、競技人口を増やすこと。
堀田先生は国内サッカーのレベルアップも見据えて、子供たちへの普及活動を積極的に推進します。
その1つが、サッカー教室の開催です!
1972年、サッカーの王様と呼ばれていた当時ブラジル代表の「ペレ」によるサッカー教室を清水で開催します。
開催場所は清水総合運動場 陸上競技場。現在でもサッカーの試合会場として利用されています。
世界的なドリンクメーカーがスポンサーとなって実施したものでしたが、地元関係者やサッカー少年たちに強烈な刺激を与え、競技人口の増加にも貢献することになります。
さらに、元ブラジル名門コリンチャンスに所属経験があり、1972年からJSLでもプレーしていた日系ブラジル人選手のセルジオ越後氏に協力をお願いしました。
セルジオ氏もサッカー熱が強い静岡がお気に入りで、1976年以降は地元の子供たちの強化に大きく尽力することになりました。
目玉となるサッカー教室を開催し、サッカー人口の拡大を図った。
【理由⑥】清水FCの海外遠征
清水市の当初のライバルといえば、県内で先行する藤枝市でした。身近なライバルである藤枝市に負けまいと取り組んできました。
しかし、もっと広い視野で見れば当時日本の前に高い壁として立ちはだかっていたのは海外勢。海外のチームと試合を行う流れは必然でした。
そこで、清水FCは海外遠征を行います!
1974年には韓国遠征を敢行し、ドイツ、ブラジルへと行き先を世界に広げていきました。
海外遠征を経験した選手たちが、やがてアジア制覇やワールドカップ出場を達成することになっていくのです!
サッカー王国静岡の力が、日本サッカーの活躍の舞台を世界へ広げたと言っても過言ではないでしょう。
1973年第7回全国少年団大会に出場した清水FCは、大量得点を奪いつつ無失点を継続して他を圧倒し、難なく決勝に進出しました。頂点を争った茨城代表・古河サッカー少年団には0-1と大会初失点で敗れはしたものの、その戦いぶりは称賛されるものでした。
古河のサッカーが、前線に蹴り込んだボールを体の大きな選手が奪って強引に攻め上がりゴールを狙うのに対し、清水FCのサッカーは高い技術でしっかりとボールをつないでゴールに向かう洗練されたサッカーを展開していたのです。
決勝戦は無得点だったものの、清水FCは実に23本のシュートを放ちました。
そしてなんと、この決勝の試合を視察観戦に訪れていた韓国サッカー界の重鎮から、「韓国に来て試合をしてみないか」と誘いを受けたのです!
しかし、韓国遠征の実現は簡単な道のりではありませんでした…。
実は小学生の海外遠征は、全国的に見ればこれが初めてではなく、この3年ほど前には兵庫県のチームが台湾に遠征し、韓国遠征も実は前例がありました。
けれど、韓国からの誘いを清水に持ち帰り周囲に話すと、案の定猛反対…。
小学生のチームが海外に遠征することなど、県内ではもちろん前例がなく、その行き先が軍事政権下にあり戒厳令が敷かれている韓国…。歴史上のさまざまな背景もあり、反対の声が上がるのは当然の流れでした。
こういった中で、当時の清水市長が理解を示すと話は一気に進展し、ようやく韓国遠征の許可が下りるのです。
しかし、役所の許可が下りてもまだ難題がありました。
韓国から誘いを受けたとはいえ費用はこちら持ち…。県外遠征でさえ交通費や宿泊費が掛かるのに、海外遠征となれば航空運賃や長期間の宿泊費用がかかり各家庭に負担がのし掛かります。
当然、「海外遠征に行く必要があるのか」と保護者から疑問の声も上がりました。
そこで当時清水FCの監督を務めていた地元小学校の教員である綾部美知枝は何度も説明会を開き、熱意を持って経験の大切などを保護者に伝えることで、何とか承諾を得ることができたのです!
やっとの思いで実現した韓国遠征…。1974年、4泊5日の日程で実施されます。
アジアの中で常に高い壁として立ちはだかっていた韓国でしたが、清水FCは驚きの好結果を残すことになります。
実に、8試合を戦い5勝3分と負けなし。さらに、全13得点を挙げ失点は0だったのです!
格上だと思っていた韓国の子供たちを相手に良い結果を残し、自信を手に入れたことはもちろんですが、それ以上に海外を味わうことができたことが貴重な経験となりました。
完全アウェイのスタジアム、試合会場から帰る際の投石、満足ではない食事など…、自分達の恵まれた環境に気づくきっかけにもなりました。
韓国遠征の翌1975年にはヨーロッパ遠征(イングランド、西ドイツ)を行います。
韓国遠征は小学生だけでしたが、今度は中学生も加わりました。この中学生たちは、前年に小学生として韓国遠征したメンバーが中心でした。
実はこのヨーロッパ遠征は、堀田先生が1973年に指導者育成のための海外研修に参加した際にできたパイプ(つながり)を活用したものでした。
現地のクラブチームとの試合は苦戦も予想されましたが、小学生も中学生もそれぞれ5戦してなんと全勝!!子供達が自信を深めたことは事実でしょう。
小学生の中心選手だった望月達也は、後に清水東高に進学し、同期の反町康治(清水東→慶応大→JSL全日空→横浜フリューゲルスなど)らとともに高校選手権で準優勝します。
さらに、高校選抜メンバーとして参加したヨーロッパ遠征では、後に日本代表監督で指揮を執ったハンス・オフト氏らから高い評価を受け、高校卒業ともに当時オランダ1部だったHFCハーレムに所属し、静岡から世界を目指す先駆者となっていくのです!
ヨーロッパ遠征の3年後、1978年サッカー王国のブラジル遠征を行います。
当時日系二世選手としてJSLでプレーしていたセルジオ越後氏と堀田先生、そして地元清水市のバックアップによって実現しました。
なんと現地ではブラジル選手権決勝の前座試合として、10万人ほどの観衆の前で清水FCの小中学生が年齢が上のプロ予備軍たちと対戦したのです。
それだけでなく、互角かそれ以上の力を見せつけ、清水FCの選手たちの活躍は現地に衝撃を与えました!!
70年代から始まった海外遠征は、その後も長く続きました。そこに参加した選手たちは、その後日本のトップレベルへと成長し、日の丸を背負った選手も多数輩出。
そして堀田先生が描いていた『日本にプロリーグを』『地元清水にプロクラブを』さらには『日本代表のワールドカップ大会出場』『日本でのワールドカップ大会開催』といった多くの目標実現につながっていくのです。
海外遠征を通して清水サッカーの強化を図り、日本サッカーのレベルアップにも貢献した。
【理由⑦】清水金曜トレセン
今現在、日本のユース育成の中心的役割を担っているのが、「トレセン制度(ナショナルトレーニングセンター制度)」です。
「日本サッカーの強化、発展のため、将来日本代表選手となる優秀な素材を発掘し、良い環境、良い指導を与えること」を目的に、各地域の優秀な選手たちを集めて、強化を図っていく制度になります。
トレセンで活躍・成長した選手が、日本代表へと育っていくシステムが確立されています。
当時の堀田先生も、選抜された選手たちが経験を積み強化を図ることができる制度を考えました。
それが、「清水金曜トレセン」です!!
小学校6年生から高校3年生までが、金曜の夜に一緒にサッカーをする…。
現行のトレセン制度の先駆けともいえる選抜選手による練習会を通して、清水サッカーの更なるレベルアップを図ったのです。
清水金曜トレセンでトップ層の成長を加速させた
【理由⑧】指導者の育成
優れた選手の育成のためには、優れた指導者の育成が欠かせません。
堀田先生は、清水のサッカーレベル向上のための指導者講習会を実施します。
1969年にFIFA(国際サッカー連盟)によるコーチング・スクールが開催。1970年に清水市蹴球協会理事長に就任すると、同年に開催された日本サッカー協会公認の指導者養成第1回コーチングスクールに、県サッカー協会の推薦で堀田先生が参加します。
約1か月間全国から30名弱が参加し、スクールに合格しライセンスを取得した者は、地元に戻って指導者を養成することが求められました。
堀田先生は早速県内から希望者を集め、自身が勤務する清水市立入江小学校で指導者講習会を実施したのです。
期間は1年間で実に全50回!!
毎週月曜日午後7時から2時間で行われ、初めの1時間は体育館で実技、次の1時間は教室で講義という時間も内容も濃い講習でした。
まだ専門書や指導書もほとんどなかった時代で、堀田先生が日本協会主催のコーチング・スクールで学んだ内容をわかりやく資料にまとめ、ときには世界のサッカーのプレーをまとめた映像なども駆使しながら、戦術的ものから栄養学、心理学など、選手として関わるあらゆる部分を受講者に伝えました。
受講者は50名弱で、その中には後に指揮官として高校を全国の頂点に導いた清水東の勝沢要、浜名の美和利幸、静岡学園の井田勝通、東海一の望月保次、後に小学生の清水FCの監督に就任する綾部美知枝ら、静岡をサッカー王国に導いていくメンバーが知識を共有しました。
他にも、地元の小学校から高校のサッカー部顧問や地元企業のサッカー部監督まで、幅広い世代の指導者が集まりました。
そして、その受講者たちが得たコーチングに必要な情報を広めていくことで、質の高い指導が隅々まで浸透することになります。
指導者の養成に力を入れたことは、間違いなく静岡をサッカー王国に導く要因の1つになりました。
指導者講習会を通して、質の高い指導が静岡全体の幅広い年代に波及した
いつの時代も、時代を変えていくのは熱い情熱を持った人間。
サッカーがまだ何も町に根付いていなかった清水を、サッカーの町と言われるまでに成長を遂げたのは、堀田先生の熱い情熱があったからこそです!
堀田先生が築き上げてきたものが土台となり、唯一の町クラブのオリジナル10としてJリーグ入りを果たしていくのです。